カテゴリ: 池田一論


十字モデルは、ある2つの事柄に関して、コインモデルや非弁証法的一致に並ぶ、一つのスキーマにして、二元論的な議論を扱う際の非常に強力なモデルである(ブラシエの非弁証法的一致などは、全く直感性に乏しい)

 

池田一氏を見よう。池田一氏における、十字の一方の線は、アースであり、これは実際の地球ではなく、現状、最大公約数的に万人が理解可能で、また保持し得る観念であり、メディアである。他方の線は、水であり、これは物質的な水が基底にはあり、その予測不可能性や、その他水に固有の諸性質をもつ、表現手段である。理論と実践の、両立可能性が、この十字の交差モデルにおいて、明確になるのである。そして当然、この2つの線の分割は、ラジカルな二元性に基づくものではない。2つは共にメディアであり、手段であり、観念である。また観念として、共にそれぞれについての思想が築かれ得る。

 

アースについては、それが代替可能だとして、どんな他の概念が置き換え可能かを見よう。それは、最大限の普遍性を意図するのであれば、その意図が初めにあるべきで、それが現状ではアースということなのである。だから、最大限の普遍性とは何かが、常に問われなければならない。そして、それは思考ではないであろう。多種多様な相対立する思考が、いつでも争っているのである。だから、最大限の普遍性とは、具体的な物質の、観念化である必要がある。池田氏が「宇宙」と言わず、「アース」というのも、宇宙には存在することは出来ない、あるいは存在しているのであるが、その直接的直感がない、ということによる。アースならば、誰もが足元を見て、己がその上に立っていることを確信できるのである。

あるいは、最大限の普遍性をアースとすることが、物質主義的と見做される場合には、それに直接、観念を対置することが出来る。例えば、数多ある思考でなく万人が有するという意味での思考という普遍性、意識という普遍性、等。

 

最大の問題は、この十字モデルが機能するには、その十字、交差がきちんと確立され得るか、による。

 

アースの場合、それが展開される場所は、アースそのものだ。これは、アースが最大限の普遍性であることからして、自然な帰結である。他の観念の場合も、同じことが言えるだろう。「生」、「意識」、「思考」、「存在への直感」…しかしこれらは、場所として機能し得るが、具体的な物質でないので、それが展開されるには何らかの具体的なメディアを媒介するであろう。そしてそれは実は、観念としてのアースも同様である。観念としてのアースが、場所としてのアースで機能するためには、具体的メディアが必要である。しかしアースアートの特異性とは、その具体的メディアをも、アースの諸要素、例えば水や竹から形成する、というメディアと観念としてのアースとの自然な架橋そのもののことなのであり、それこそが、十字モデルを内在的に満足する、ということなのだ。

 

例えばメディアを、デジタル表現に置き換えたとしよう、そして最大限の公共性を、思考と存在の関係たる超越論的差異についての思考だとしよう。この思考を場所として機能させるためには、メディアが必要であるが、それを例えばデジタル表現だとする必然性がないのである。むしろ、思考の自然な表現は、それで思考が表現されるところの、エクリチュールであろう。それをデジタル表現で置き換えることは、表現でありアートであるかも知れないが、端的に迂回であり、そしてその表現によって伝達されるところのものは、幾多ものコード変換を経るので、最初の最大限の普遍性と想定した思考そのものにおいて、機能するものではないであろう。むしろそれは単純に美的感性を刺激する、そういったアートではあるかも知れないが、十字モデルの条件は満たさないのである。

 

こうして、池田一氏の十字モデルは、極めて強力な、代替不可能なモデルであることが分かる。仮に、今巷で流布している思弁的実在論、あるいはその周辺のポスト・ドゥルーズ的思考は、池田一氏の観念としてのアースを否定したいと思うだろう。それよりも拡張された、宇宙なり、物質の世界を代替させたい、と思うだろう。だが、それで十字モデルを満足したい、と思う場合に、可能な唯一のメディアはテキストなのである。なぜなら、宇宙において、メディアとなりうる具体的な対象とは、抽象的で、それこそ思弁的な概念である、「ものそれ自体」であると仮定されているからだ。

 

そこで、こんなアイデアが出てくる。「ものそれ自体」を、具体化して、メディアにすればよい。デュシャンの一種のルネッサンスである。デュシャンは、有名な「泉」にて、便器から便器の機能や意味を剥ぎ取り、ものそれ自体を提示した。そしてデュシャンの時代とは違って、我々はものそれ自体の世界を思考として持っているのだから、デュシャンでは満たし得なかった、宇宙×ものそれ自体の十字モデルを形成し得る。そして今や我々は、デジタル表現を手にしているのだから、デジタルからも、その特権を奪い去り、それを「もの」として扱う準備がなければならない。具体的には、デジタルがそこで表現されているところの、ハードウェアなりディスプレイなりを、「もの」として、他の「もの」と区別することなく、扱うのでなければならない。

 

もちろん、デジタルが普及し、デジタルでネットワークで繋がれた世界は、地球と同等かそれ以上の普遍性をもつ、とも主張できよう。その場合、メディアはそのままデジタル表現であり、こうして十字モデルを端的に満たす。これが、今流通しているメディアアートの一つの形式であり、その誕生こそは革命的であったが、その構造に関しては我々は日常の中で慣れすぎた。

 

ポストアートは、池田一氏の提起した十字モデルを満たしつつ、デジタルをも「もの」化することで、ものの思考としてのポスト・ドゥルーズ的思考を、観念としてのアースに対置することを目指す。(織田理史)

かつて、池田一氏を特集したArt Crossing創刊号において、私は「存在的水」と「存在論的水」の区別を定立した。「なぜ、水のアートですか?」という問いに対し、池田一氏は「水に絵を描いた画家もいないし、水を彫刻した彫刻家もいない。水は、文明が蓄積し進化してきた芸術文化の方法論、技術を越えて存在している」と答える。そうであるとすれば、この池田一氏の言う水は、確かに制度的なものを否定する存在であり、制度化に抗う存在である。それを私は「存在論的水」と名づけ、それは生成のシンボルであるどころか、より深いレベルではむしろ歴史という流れから超越した静的な存在である、とした。しかしここで私は、その存在が、つまり存在論的水が「究極の実在」である、というまずい言い方をした。本当は、「究極の実体」というのが正しい(その後で存在論的水は特殊な実体である、といい直しているが、これは取りも直さず実体と実在の概念を混同していたことを証している。誠に我ながら恥ずべきことである)。そこで、存在論的水が特殊な実体である、と再確認したうえで、考察を進めよう。

 「全てのものは予め存在している」ということ主張は、取り立てて哲学的に奇異なものではない。プラトンのイデア界がそうであるし、虚構の存在論を構築している三浦俊彦がウォルターストーフの種類説を解釈して、「種類の理論は虚構的対象の存在、しかも恒久的な既在を保証することになる」というとき、また続けて「虚構的対象とは作品内に具象化された種である」というとき、その虚構的対象の恒久的な既在がそうである。なぜなら、「性質もしくは種は、通常の形而上学によれば、その事例が存在するしないにかかわらず、いかなる世界にも必然的に存在する」からである。しかし三浦(ウォルターストーフ)らが語るこれらの「恒久的な既在」と、私がその存在を主張したい「予め存在している」全てのものとが違うのは、後者が個体をも含む、ということである。そこでなんと個物主義のスコトゥスと種類説のウォルターストーフとの中間に、その両者をも包含しうるプラトン哲学が位置することにもなろうが、プラトンより私にとって示唆的なのは、オッカムの唯名論である。オッカムは、神の内なるイデアも否定し、神が創造に先立って見た対象は将来存在する個物そのものであるとした(神に対しては未来の事物も現前する)。ここで「神」および「創造」の概念を減算し、未来の事物、ないし予め存在する事物に種をも認めたならば、またプラトンとは、個「も」また全面的にイデア界に存し、その例化をも認めるということで差別化されたならば、それこそが私の「全てのものは予め存在している」という主張が表現しているところの事態なのである。

 今回は考察をここまでにしておかなければならないが、この後に続くべき議論としては、池田一氏の存在論的水の一般化としての「特殊な実体」が、「恒久的に予め存在している」ことを示すことであり、さらには次のような個体化のオペレーターとも同一視されることを示すことである:貫レベル的に、具体的な対象に作用することで、その具体的な対象の集合(それは例えば具体的な文脈の束であってよい)から一つを取り出す作用(特殊化の作用)として解されたものとしての、個体化のオペレーター。(織田理史)

「死」に強い興味がある。絶滅とは単なる死の拡張概念ないし単に一般化された概念ではないが、死によっても分析が可能な概念である。具体的には、絶滅とは、「ある時点t1が在って、t1において存在するあらゆる人間が同時に死すこと」である。

そのとき、共-死としての絶滅に際して、人はいかにそれを受け入れるべきか?それは、社会契約説における、社会契約の破綻、すなわち万人の万人による闘争への回帰を意味するだろうか?カニヴァリズム、あるいは最も原始的なヘドニズムが跋扈し、性的・法的な無秩序が横行するのであろうか?

排中律が正しく、従って「人類は絶滅するか、しないかである」、という命題が正しいとしよう。そのとき、すなわちA∨¬Aが真の時、A:「人類は絶滅する」を仮定しよう。そのときに人類全体が、上に触れた無秩序に陥らないための、「絶滅()の倫理学」を考えることが、少なくとも特殊な研究として必要に思われてくるのである。

 

ドゥルーズ、及び超越論哲学がついに果たせなかった「発生の実在性の正当化」という問題から、ただちに「発生の神秘性」及び「神秘としての発生の、哲学からの追放」が帰結されるわけではない。しかし、「発生が実在的である」ということを正当化することに失敗している、と論じることが成功した分だけ、「発生の非実在性」という主張は蓋然性を増す。

発生の非実在性は、形而上学の再構築、ないし整備、体系化、形式化を要請するであろう。さらに、哲学は実在そのものを扱えない、というより強い主張が合わさると、この哲学は不可知論となる。

 

この終末論(絶滅倫理学)と不可知論との間には、複雑な内的連関が存在するのであるが、一応、それぞれ独立した主張としても成立可能である。

 

加えて、哲学と、哲学外の現象、縄文的思考、ないしスピリチュアルなものとの接合は果たされつつある(後日詳論予定)。それは独自のアート存在論とでも呼ばれるべきものである。アート存在論と、実践としてのアート、とりわけメディアアート、インタラクティブ・アートとはどう結びつくか。この問いはアート存在論に対して、アート方法論とでも呼べるものを定立する。

 

アートは思考の表現か。この問いに対して、二つの道筋を立ててみよう。

第一の道。アートとしての写真は写-(真実ないし実在を-写すこと)であってはならない(と私は考える)が、アートは写-真でなければならず、表現であってはならない。いかなる作家性、個人性によって曇らされるべきでなく、透明でなければならない。アートは、その最も広い意味において、メディアでなければならない。それはいわば、深みを形成する襞をもってはならず、平滑で平面的、平易であることでもって、深みの次元すなわち芸術性を減算することである。文章ですらそれが完全な公共性を持たない以上、それ単体ではメディアとして不適切なのである。ここで、「地球とは人類にとって最も公共的なものである」という池田一氏の主張が特別な重要性を帯びてくるのである。しかし地球と池田一氏のアースアートとの密接な連関は、池田一氏に固有の論理、作家性、アート観に依存している部分が大きいので、この文脈では特に普遍的なもの(公共的なもの)を地球に限る必要はなく、場所一般、それも具体的な場所をメディアの必要条件とすればよいのである。具体的な場所の現時点での最もスケールの大きい例が地球であることには違いないが、何も地球に制約される必要もない。これが一つの道である。

 別の道として―そしてこれこそが私が取りたいと思っている道なのだが―、たとえ各種メディア、各種媒体や表現様式がそれ自体では十分な普遍性を持ちえずとも、現在利用可能なメディアの全体で、同じ「伝えられるべきこと」を、パラレルに展開する、という方法が考えられる。ここでは作家性の有無、芸術性の減算といった事柄は特に問題にならない。むしろ可能なあらゆるメディアで、「伝えられるべきこと」が、それぞれ何の相互性(インタラクティヴィティ)も連関もなく展開されるべきで、インタラクティブ・アートに代わる「パラレル・アート」あるいは「Ex-active Art」「Para-active Art」とでも呼べるような形態が可能性をもってくるのである。この場合、第一の道と反対に、各メディアはそれぞれの様式に従った「伝えられるべきこと」の表現以外ではあり得ない。「現在利用可能なメディアの全体」とはすなわち、「現在可能な最大の公共性・普遍性」を意味する。伝えられるべきことが仮に不変的(invariant)であるとすれば、アーティストの仕事は、次々に登場してくる新しいメディアに、当の「伝えられるべきこと」を(-真でなく)写真することに他ならない。それが「現在可能な最大の公共性・普遍性」の必要条件である。そしてパラレルに展開されたアートは、再び統合されなければならない、あるいはその統合可能性が担保されねばならない。なぜなら、各種メディアのもつ特殊性に基づく普遍性の欠乏を補うために、あくまでメタレベルで、それらがもつ意味の同一性を保証することが必要だからである。この統合化の段階は、日常言語―例えば母国語―によって実現されて良く、また一度統合化それ自体が公共的に了解されてしまえば、以後省いても良い段階である。(Masafumi Oda)

池田一は、二重の意味において起源をもたない人物である。一つ目の意味では、氏は本当の両親を知らず育った。幼少より育てられた両親は、生みの親ではないということを突如聞かされたとのことである。

 

しかしより本質的なのは第二の意味においてであって、氏は、自分の存在が、果たしてどこから来たのかを永遠に希求することをパフォーマンスの本質としている、ということである。

 

この意味における起源の(永遠に終わりをみない)探求は、例え自身の両親がはっきりしている者であれ、誰しも試みたことはあろう。

曰く、「なぜ私は生まれてきたのだろう?」要するに、自分の存在根拠の探求である。大抵の人々は目の前の雑事に追われ、この永遠の謎の探求を打ち切る。それも、愚かさ故にではなく、問い続けても永遠に答えの出ない問いだと理解しているからだ。しかしこの問いは大口を開けて、日常のすぐ傍らに潜んでおり、日常と言う仮初めの安定性が傾きを見せた時、すぐさまその者を飲み込む。

 

このことを、より哲学的な言い回しで明らかにしてみよう。つまり、池田一の路傍の表現という概念を、西洋哲学的な言い回しに還元したうえで、その本質を哲学的に明らかにすることを試みよう。

 

永遠とそうでないものの領域との完全なる分離が、再考されるのは望ましいことであるであろう。クワインは、分析的と総合的の二分法を棄却したが、その射程はその語が示すように論理学的な範囲に限られる。

しかし英米系の哲学にもましてあらゆる伝統的哲学は、いかなる形にしろ、永遠的なものと経験的なものとの接合を目論み、経験的なものを永遠的なものによって説明するにしろ(プラトン主義)、永遠的なものの定立から経験的なものの発生の説明するにしろ(ニーチェ―ドゥルーズ)、経験的なものがもつ還元不可能な神秘性によって足元を掬われてきた。

それに対して、永遠的な領域に哲学的探求を限れば、外的操作によってこれまた永遠的な無数のステップ(形而上学的諸命題)が得られるであろう。だからこの探求は、実践的性格に直接には結び付かない。しかし、この永遠と経験との二元論が生じるのは、まさに哲学的思考においてであって、日常においては、それらは様々な形で、その認識がその文脈における出来事の最も適切な解釈となるように、永遠的なものと経験的なものとの混合の調整が常に行われている。

 

永遠的なものではなく、経験的なものこそが神秘的となった今や、一つの特別な行為とは、経験的なもののまさにその場所であるイマーココにおいて、出現・現象する一切の形式的解釈を放棄することである。そして、自分自身、実体ならざる現象として、イマーココという経験の唯一の場所にしがみつくというのならば、それは自己のあらゆる形式的解釈を放棄するということである。つまりそれはひたすら問い続けるということであるが、それがもはや思考の放棄を意味するとすれば、残るのは行為しかない。そして、行為が反復され、パターンが生じることで、思考そのものが生まれてくるようであれば、それは彼が自ら現象であることを止め、永遠の領域の安息を志向する、ということである。


ドゥルーズの用語であるが、着衣の反復という非概念的な実在から差異を抜きとる、とは、区別をつける、分別を可能にする、思考が可能となる、ということであり、思考が「差異の反復という実在そのもの」から区別・分離される、ということを意味する。だから、ドゥルーズは思考の発生を肯定的に語っていたが、池田一は、逆に自らという「差異の反復」を、現象のままにしておくことで、思考が生じることを拒絶しているのである。差異の反復が存在となってしまう、ということにでもなれば、それは思考の対象となり、思考が生じてしまう。一切は差異の反復である、という判断が生じてしまう。対象化作用そのものが、当の対象と区別されるものとしての思考の発生を含意するのである。自らが現象である限りで、対象は生じ得ない。自らが存在化すれば、それは現象がパターン化することで非現象となることを意味する、つまり自らが対象となりうる。それは特定の誰かにとっての対象ではなく、差し当たりは未規定で匿名の汎主体の対象ではあるが、そういうものとして、汎主体という客観性が、思考、ないし対象化作用として生じてくるのである。

 

池田一の路傍の表現とは、こうした現象のパターン化としての存在化に抗う(池田一自身の表現で言えば、生じてくるメロディやリズムや言葉を「何が何でも壊してしまう」)という行為なのであり、それは「要するに、長年貯め込んだ制度なるものを逸脱する他に、即興的に持続を可能にする道はない」ということを意味するのである。(Masafumi Oda)

池田一は、自身をときに「水のアーティスト」と呼んでいる。それは、世界各国で氏が展開してきたプロジェクトの内容からも明らかだ。だが実を言えば、私は氏が「水」を特権的な媒体として用いている、ということに関しては、目下特別な関心をもっていない。氏のもつ壮大なアート観、アート思想体系にこそ、目下多くの「アーティスト」と称されている人々が―私も含め―見るべきものがある。もちろんこのアート思想体系と水という特権的な対象とが互いに不可分であることは承知である。この不可分性については、様々な箇所で詳論したので、論じるにしても別の機会ないし別の記事に譲りたい。

「アートが行政を超える瞬間」を池田一氏は強調する。アートは、行政に反してはならない。それは公共良俗に反してはならない。氏が「水のアーティスト」、つまり環境アーティストだから、特別にそうである、というのではない。公共良俗に従うのは、アートであっても当然のことである。その上で、私が氏に見ているのは、行政、より一般的に言い換えると制度的なものの外部にあって成立しているアートという独立した領域である。

例えば、ギリシア哲学以来語り継がれてきた「質料/形式」の二元論を見てみよう。19世紀になりいわゆる「生の哲学」が、世界や生の不合理性を強調するため質料の方に重きを置き、20世紀には、主にフランスを主とするポスト構造主義者たちによって、質料は「偶然性の源」「アプリオリな偶然性」などいった器官として存在論化された。それは経験において経験的に説明できないものを説明するための器官として、「超越論的」器官とでも呼べるものである。超越論哲学は21世紀現在猛烈な批判に晒されているのであるが、ここではそれに触れる余裕も必要もない。

簡単に、超越論的器官が、質料の肥大化したものが存在論化されたものだとしよう。すると、哲学的観点からは、経験的な世界と、超越論的な領域とが並行して存在することになる(後者が単に超越でないのは、様々な概念装置や諸条件によるのであるが、ここでは触れない)。

別の図式をたてよう。アートは、制度的なものに常に反撥し、それに疎外され、他に還元できない何かある動的な領域である。逆に、世界を固定したものとそれに還元されない動的なものに分割したうえで、また前者を制度と定義したうえで、後者をアートと定義する(しかしこれでは十分でない―アートは制度より深いところにあって、そこで生きた人間のなまのネットワークを成立させているのである。そこに大胆に踏み込むのが池田一という最も根源的な意味でラジカルなアーティスト(radical artist in the most radical sense )なのである)。

アートという領域の存在は、人間の必要十分条件ですらある。しかし他の仮定的な必要十分条件としての超越論的概念、例えば生や差異といったものと違うのは、それは超越論批判者の先鋒たるカンタン・メイヤスーの祖先性の主張に対して堪えうる、ということである。超越論的器官が祖先性の主張ないし宇宙に対して閉じているのに対し、アートは積極的に言えば、宇宙に対して完全に開かれており、物質に対して人間を開く、つまり物理的な超越を人間に対して補うことで、人間の「宇宙倫理的な」ちっぽけさから人間を救う力を持つ、ということである。ハイデガーの技術論に反して、人間を脅かすものは技術でも科学でもなく、それと相関した新しい哲学であった。人間的なものが、哲学においてさえ科学ないし技術の急激な進歩と相関して軽視の一方にあり、超越論的なものはその消去を目論まれている。それでも、救うものとしての芸術の領域は、今のところ侵犯されていない。

上記のあらゆる意味で、アートは、超越の克服である。
これを差し当たりは一つの結論としておこう。

アートについては書くこと、説明すべきことが膨大に残されているが、池田一論として、次回は氏独自の言い回しである「路傍の表現」を採り上げようと思う。

なお超越の克服としてのアートを実感したのは、2017年の春田浜における池田一氏のプロジェクトに際してである。

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