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アーティスト、いやそれに全く限らず、ある種の人々は、「草木と対話できる」「死者と交われる」などという発言をすることがある。それを、非科学的だからと言って「スピ系」「スピリチュアル」と形容・カテゴライズし、それで満足することは可能である。しかし、私にはこの種の発言が、あるいは発言の内容が、単なる妄想などとは到底思ないような経緯があり(私自身にはこの種の経験は恐らくないのであるが)、それを理論語を使った形で、少しでも理論的に語れないかと常々考えてきた。以前、私はアートを「超越の克服」と定義した。今回は、文脈を特にアートと限らず、全くの不十分なスケッチではあるが、「草木や死者、宇宙人と対話する」という表現の持つ有意味性について考えてみたい。

もしそれが可能であり現実的であるとするなら、それは何らかの言語であるか、超感覚的なものであろう。前者の言語であるならば、言語はコミュニケーションの必要条件であるが、それは認識の伝達・共有を目的としないもの、つまり分節化されていないものであろう。それは、相互の状態・訴えを共有するようなものであるだろう。それはシニフィアンとシニフィエ、記号と意味のシステムではなく、また分節された記号とその指示対象のシステムではなく、身体の分節不可能な無限の表現を媒介した、認識より根源的な「状態」を伝達・共有するものであるだろう。草木は身体表現を持たないが、表現はするであろう。それを捉えるのに適切な感覚は、五感ではなく、別種のものかも知れないが、それでも表現は言語的であるであろう。感覚、及び表現は、自然種に相対的であろうが、つまりその生物学的組織に依存するであろうが、その言語は普遍的なものであろう。それは状態、もっと言えば存在を訴えるものであるだろう。ここまでの共約可能性で、その言葉が成立する場は空間的・時間的延長によって制限されないだろう。従って、過去のもの(死者)や未知の生命体(宇宙人)などと対話するということは、全く突飛なことでないであろう。(織田理史)


ある個体のもつ特異性が、万人に訴えかける、すなわち普遍性をもつ、とは、要するにその特異性が問題的・問題提起的である、ということである。

 

アートは、特異性を表現するが、それが万人に共通の個人的悩みであることで普遍的であったり、社会的問題における一つの特異的立場である限りで普遍的であったりする。アートは二つの異なる普遍性を持つ。すなわちそれが提起するところのテーマないし問題と、それを通じて問題が提起・表現されるところのメディア。

 

水とは目下最も普遍的なテーマの一つであることで普遍的な問題提起であり、またメディアとしては、余りに生命に肉薄しているがゆえに普遍的である、あるいはメディア性の減算された非ーメディアである。

マルチシズムが跋扈する中横暴な分類で恐縮だが、ある者は理念的・概念的なものを、ある者は生活や日常的なものをテーマとする、という二元論的傾向がある。

 

生活や日常をテーマとするものは、それが共時的・局所的に身近であるだけ普遍的だが、通時的・大域的でないだけ普遍的でない。逆に、形而上学的な超越(的領域、ないしテーマ)は、通時的・大域的に普遍的である。形而上学は問題という存在そのものを扱う学であり、問題の問題であるが、それゆえ個々の特殊な問題でなくして、普遍的な、言い換えれば形式的な問題を提起する。

ところで、上述の二つの普遍性は、とりわけメディアが特殊な実体であるだけ、互いに相関的である。当のメディアが、存在論的に特殊である、という思考が、そのままテーマとなって、アートは次の形を取る。すなわち、そのメディアが何であるかを、すなわちそのメディアの意味を、まさにそのメディアによって問題として提示してみせること。そのことで、当のメディアそれ自体について考えさせること。

池田一は、以前より水をメディアとしていたが、近年はアース、地球をメディアとすることにより、地球それ自体について問題提起し、それについて考えさせているのである。水は、確かに最も普遍的なメディアの一つではあるが、その意味、その価値について普遍的でない部分があった。なぜなら、国や地域、環境によって水の持つ意味は違ってくるからである。逆に言えば、十分に問題提起的でなかったのである。しかし池田の言う意味でのアースは違う。「誰もが皆、ひとり一人の地球(アース)を持っている」と池田は言う。つまり思考可能な最大の問題提起性を、このアースは持っている。

 

こうしてアースとは、観念化され、それぞれの人の持つアースとなることで、まったき普遍性を獲得したのである。更に言えば、題目の「特異性と普遍性の非超越論的一致」を獲得したのである。

 

かくして、池田一の一連のアースアート作品は、その空間的規模や協働性によって測られるよりも、目下可能な最大の普遍性のひとつとして測られる、ということの方がより本質的なのである。(織田理史)

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