ある個体のもつ特異性が、万人に訴えかける、すなわち普遍性をもつ、とは、要するにその特異性が問題的・問題提起的である、ということである。

 

アートは、特異性を表現するが、それが万人に共通の個人的悩みであることで普遍的であったり、社会的問題における一つの特異的立場である限りで普遍的であったりする。アートは二つの異なる普遍性を持つ。すなわちそれが提起するところのテーマないし問題と、それを通じて問題が提起・表現されるところのメディア。

 

水とは目下最も普遍的なテーマの一つであることで普遍的な問題提起であり、またメディアとしては、余りに生命に肉薄しているがゆえに普遍的である、あるいはメディア性の減算された非ーメディアである。

マルチシズムが跋扈する中横暴な分類で恐縮だが、ある者は理念的・概念的なものを、ある者は生活や日常的なものをテーマとする、という二元論的傾向がある。

 

生活や日常をテーマとするものは、それが共時的・局所的に身近であるだけ普遍的だが、通時的・大域的でないだけ普遍的でない。逆に、形而上学的な超越(的領域、ないしテーマ)は、通時的・大域的に普遍的である。形而上学は問題という存在そのものを扱う学であり、問題の問題であるが、それゆえ個々の特殊な問題でなくして、普遍的な、言い換えれば形式的な問題を提起する。

ところで、上述の二つの普遍性は、とりわけメディアが特殊な実体であるだけ、互いに相関的である。当のメディアが、存在論的に特殊である、という思考が、そのままテーマとなって、アートは次の形を取る。すなわち、そのメディアが何であるかを、すなわちそのメディアの意味を、まさにそのメディアによって問題として提示してみせること。そのことで、当のメディアそれ自体について考えさせること。

池田一は、以前より水をメディアとしていたが、近年はアース、地球をメディアとすることにより、地球それ自体について問題提起し、それについて考えさせているのである。水は、確かに最も普遍的なメディアの一つではあるが、その意味、その価値について普遍的でない部分があった。なぜなら、国や地域、環境によって水の持つ意味は違ってくるからである。逆に言えば、十分に問題提起的でなかったのである。しかし池田の言う意味でのアースは違う。「誰もが皆、ひとり一人の地球(アース)を持っている」と池田は言う。つまり思考可能な最大の問題提起性を、このアースは持っている。

 

こうしてアースとは、観念化され、それぞれの人の持つアースとなることで、まったき普遍性を獲得したのである。更に言えば、題目の「特異性と普遍性の非超越論的一致」を獲得したのである。

 

かくして、池田一の一連のアースアート作品は、その空間的規模や協働性によって測られるよりも、目下可能な最大の普遍性のひとつとして測られる、ということの方がより本質的なのである。(織田理史)