構成は大きく分けて3つ、全員が形式の一致した動き(ゴムの輪のようなものを用い、全員がその上に仰向けに乗っている状態から始まる。とても不自然な姿勢で苦しそうだ)、全員がパラレルに、全くバラバラに動く場面、そしてもう一度、全員の形式の一致した動き(ティッシュを大量にバラまく。敷き詰められたティッシュの園を、ブルドーザーのように各人が前進して、倒れる)

 

まず出演者の12名は、起源も生い立ちも、立場もスタイルも多様であり、深谷正子氏はその各々の多様性、特異性を全肯定することを、基本的なスタンスとしている。それだけに、全員の形式が一致した場面では、その「一致」に少々の歪が生じ、例えば有名なダンス・カンパニーの華々しく精緻な振付に比べると、粗さが目立つ。それは、各々の個性的なダンサーの、「精緻な一致」という抑圧に対する抵抗であったのかもしれないし、深谷氏は当然それも折り込み済みであったであろう(絶対的な振付を押し付けたくない、と深谷氏自身も言っていた)

 

二つ目の場面での、全員の運動がパラレルに展開する場面は、まさに深谷氏の基本的なスタンスが例化された部分と言える。例えば幾人かの私の知っているダンサー(パフォーマー)は、皆私がそれぞれ知っているいつもの動きをしている。興味深いのは、ダンサー同士の絡みが殆どといっていいほど無い、という点だ。一部例外はあるが(例えばあるダンサーが男性ダンサーの男性器を腰でこするような動き。これはのちに深谷氏自身に尋ねたところ、特に性的な意味はないとのこと)、接触すら実に厳密に禁じられているようだ。集団パフォーマンスの中で、これは異様なことだ。各々のダンサーが、いつもの動きをしながら、他者と一切絡まない。そこには、特異性が際立つほどに、関係性が希薄になるような、いや、絡まないという関係性をことさらに意識させるようなものがあった(なぜなら、本当に関係性を意識していないのなら、好き勝手な12人の身体はぶつかってしまうだろうからだ。それはこれまた厳密に避けられていた)

 

次のシーンはショッキングである。各々がティッシュペーパーを手に持ち、それを摘んでは蒔いていく。少しだけ私は嫌悪感を覚えた。紙の無駄、資源の無駄。もちろんそれこそが深谷の意図していたことであって、ティッシュを摘むダンサーの数は増え、スピードは増す。床一面が、最初は白い花の咲いた彼岸のようにも見え(彼岸花は朱色であるが)、その後雪原のようにも見えたものだ。

 

この場面は、当然象徴的なものであって、深谷氏によれば、「IT文明や大量消費文明を否定しようとしたって、現に私達はその中にいる。それなしではもはや生きていけない」というパラドクサルな現代日本文明の現状の提示を意図したとのことだ。

「あれだって私たち一人が生きている間に用いるティッシュの量の何分の一かも分からない。」

 

今の自分と社会の状況。深谷氏によれば、「今は価値観の崩れている時代」だという。価値観は多様化し、様々な価値観が許容される現状の社会の一見よい傾向を、「崩れている」と表現する。多様化する、ということは、それに依って立つべき統一が失われつつある、ということだ。それは時代の必然ではあるが、「多様性の疑いの余地もない全肯定の時代」からのシフトが望まれよう。そのようなポスト・マルチシズムのひとつの表現として、深谷氏はダンスに託すのである。多様なものが跋扈し、何に依ったらいいのか分からない状況にあって、「自分のいる手段としてのダンス」、ここではもっと拡張して「自分のいる手段としての表現」といってもいいと思うが、それを深谷氏は意図する。問いには答えがないが、それでも問い続けなければならない。問い続けること、これは哲学者にとっても表現者にとっても、またあらゆる人にとっても必要な営為である。しかし、答えのない問いの探求に絶望するまでもなく、我々は「居る」。「居ると言うのは明らか」であり、それだけが確かなものであり、また社会がどんなに凄惨な状況であっても、我々は居り、「明日人は生まれ、なお立とうとする」のである。

 

ティッシュの雪原を、12名のブルドーザーのような突進が横断し、横断はステージ半ばで果てる。それが延々繰り返される。横断の間隔は短くなる、つまる、果て、倒れるまでの間隔が短くなる。やがて12人が果てる。死を思わせる。この感動的なシーンの直後、唐突に快活なスタンダードジャズが流れる。これは一つのユーモアであろうか、アイロニーであろうか、マーラーの交響曲7番の終楽章終結部に見られるような、人を食ったような演出に、思わず苦笑い。全員のパラレルな運動が回帰したのち、演目は静寂のうちに終わる。

 

深谷氏は、現代日本に内在する「不安」、「価値観の喪失」を看取し、それでも明日は否応なく来る、といった、肯定というよりはある種の積極的な諦観を示してみせたのだ、ということが出来るように思う。未来志向というよりは、現状定位型ではあるが、そこには希望がある。12人の不安と希望が、総合されることなく一致した素晴らしい公演であった。(Masafumi Oda)

かつて、池田一氏を特集したArt Crossing創刊号において、私は「存在的水」と「存在論的水」の区別を定立した。「なぜ、水のアートですか?」という問いに対し、池田一氏は「水に絵を描いた画家もいないし、水を彫刻した彫刻家もいない。水は、文明が蓄積し進化してきた芸術文化の方法論、技術を越えて存在している」と答える。そうであるとすれば、この池田一氏の言う水は、確かに制度的なものを否定する存在であり、制度化に抗う存在である。それを私は「存在論的水」と名づけ、それは生成のシンボルであるどころか、より深いレベルではむしろ歴史という流れから超越した静的な存在である、とした。しかしここで私は、その存在が、つまり存在論的水が「究極の実在」である、というまずい言い方をした。本当は、「究極の実体」というのが正しい(その後で存在論的水は特殊な実体である、といい直しているが、これは取りも直さず実体と実在の概念を混同していたことを証している。誠に我ながら恥ずべきことである)。そこで、存在論的水が特殊な実体である、と再確認したうえで、考察を進めよう。

 「全てのものは予め存在している」ということ主張は、取り立てて哲学的に奇異なものではない。プラトンのイデア界がそうであるし、虚構の存在論を構築している三浦俊彦がウォルターストーフの種類説を解釈して、「種類の理論は虚構的対象の存在、しかも恒久的な既在を保証することになる」というとき、また続けて「虚構的対象とは作品内に具象化された種である」というとき、その虚構的対象の恒久的な既在がそうである。なぜなら、「性質もしくは種は、通常の形而上学によれば、その事例が存在するしないにかかわらず、いかなる世界にも必然的に存在する」からである。しかし三浦(ウォルターストーフ)らが語るこれらの「恒久的な既在」と、私がその存在を主張したい「予め存在している」全てのものとが違うのは、後者が個体をも含む、ということである。そこでなんと個物主義のスコトゥスと種類説のウォルターストーフとの中間に、その両者をも包含しうるプラトン哲学が位置することにもなろうが、プラトンより私にとって示唆的なのは、オッカムの唯名論である。オッカムは、神の内なるイデアも否定し、神が創造に先立って見た対象は将来存在する個物そのものであるとした(神に対しては未来の事物も現前する)。ここで「神」および「創造」の概念を減算し、未来の事物、ないし予め存在する事物に種をも認めたならば、またプラトンとは、個「も」また全面的にイデア界に存し、その例化をも認めるということで差別化されたならば、それこそが私の「全てのものは予め存在している」という主張が表現しているところの事態なのである。

 今回は考察をここまでにしておかなければならないが、この後に続くべき議論としては、池田一氏の存在論的水の一般化としての「特殊な実体」が、「恒久的に予め存在している」ことを示すことであり、さらには次のような個体化のオペレーターとも同一視されることを示すことである:貫レベル的に、具体的な対象に作用することで、その具体的な対象の集合(それは例えば具体的な文脈の束であってよい)から一つを取り出す作用(特殊化の作用)として解されたものとしての、個体化のオペレーター。(織田理史)

「死」に強い興味がある。絶滅とは単なる死の拡張概念ないし単に一般化された概念ではないが、死によっても分析が可能な概念である。具体的には、絶滅とは、「ある時点t1が在って、t1において存在するあらゆる人間が同時に死すこと」である。

そのとき、共-死としての絶滅に際して、人はいかにそれを受け入れるべきか?それは、社会契約説における、社会契約の破綻、すなわち万人の万人による闘争への回帰を意味するだろうか?カニヴァリズム、あるいは最も原始的なヘドニズムが跋扈し、性的・法的な無秩序が横行するのであろうか?

排中律が正しく、従って「人類は絶滅するか、しないかである」、という命題が正しいとしよう。そのとき、すなわちA∨¬Aが真の時、A:「人類は絶滅する」を仮定しよう。そのときに人類全体が、上に触れた無秩序に陥らないための、「絶滅()の倫理学」を考えることが、少なくとも特殊な研究として必要に思われてくるのである。

 

ドゥルーズ、及び超越論哲学がついに果たせなかった「発生の実在性の正当化」という問題から、ただちに「発生の神秘性」及び「神秘としての発生の、哲学からの追放」が帰結されるわけではない。しかし、「発生が実在的である」ということを正当化することに失敗している、と論じることが成功した分だけ、「発生の非実在性」という主張は蓋然性を増す。

発生の非実在性は、形而上学の再構築、ないし整備、体系化、形式化を要請するであろう。さらに、哲学は実在そのものを扱えない、というより強い主張が合わさると、この哲学は不可知論となる。

 

この終末論(絶滅倫理学)と不可知論との間には、複雑な内的連関が存在するのであるが、一応、それぞれ独立した主張としても成立可能である。

 

加えて、哲学と、哲学外の現象、縄文的思考、ないしスピリチュアルなものとの接合は果たされつつある(後日詳論予定)。それは独自のアート存在論とでも呼ばれるべきものである。アート存在論と、実践としてのアート、とりわけメディアアート、インタラクティブ・アートとはどう結びつくか。この問いはアート存在論に対して、アート方法論とでも呼べるものを定立する。

 

アートは思考の表現か。この問いに対して、二つの道筋を立ててみよう。

第一の道。アートとしての写真は写-(真実ないし実在を-写すこと)であってはならない(と私は考える)が、アートは写-真でなければならず、表現であってはならない。いかなる作家性、個人性によって曇らされるべきでなく、透明でなければならない。アートは、その最も広い意味において、メディアでなければならない。それはいわば、深みを形成する襞をもってはならず、平滑で平面的、平易であることでもって、深みの次元すなわち芸術性を減算することである。文章ですらそれが完全な公共性を持たない以上、それ単体ではメディアとして不適切なのである。ここで、「地球とは人類にとって最も公共的なものである」という池田一氏の主張が特別な重要性を帯びてくるのである。しかし地球と池田一氏のアースアートとの密接な連関は、池田一氏に固有の論理、作家性、アート観に依存している部分が大きいので、この文脈では特に普遍的なもの(公共的なもの)を地球に限る必要はなく、場所一般、それも具体的な場所をメディアの必要条件とすればよいのである。具体的な場所の現時点での最もスケールの大きい例が地球であることには違いないが、何も地球に制約される必要もない。これが一つの道である。

 別の道として―そしてこれこそが私が取りたいと思っている道なのだが―、たとえ各種メディア、各種媒体や表現様式がそれ自体では十分な普遍性を持ちえずとも、現在利用可能なメディアの全体で、同じ「伝えられるべきこと」を、パラレルに展開する、という方法が考えられる。ここでは作家性の有無、芸術性の減算といった事柄は特に問題にならない。むしろ可能なあらゆるメディアで、「伝えられるべきこと」が、それぞれ何の相互性(インタラクティヴィティ)も連関もなく展開されるべきで、インタラクティブ・アートに代わる「パラレル・アート」あるいは「Ex-active Art」「Para-active Art」とでも呼べるような形態が可能性をもってくるのである。この場合、第一の道と反対に、各メディアはそれぞれの様式に従った「伝えられるべきこと」の表現以外ではあり得ない。「現在利用可能なメディアの全体」とはすなわち、「現在可能な最大の公共性・普遍性」を意味する。伝えられるべきことが仮に不変的(invariant)であるとすれば、アーティストの仕事は、次々に登場してくる新しいメディアに、当の「伝えられるべきこと」を(-真でなく)写真することに他ならない。それが「現在可能な最大の公共性・普遍性」の必要条件である。そしてパラレルに展開されたアートは、再び統合されなければならない、あるいはその統合可能性が担保されねばならない。なぜなら、各種メディアのもつ特殊性に基づく普遍性の欠乏を補うために、あくまでメタレベルで、それらがもつ意味の同一性を保証することが必要だからである。この統合化の段階は、日常言語―例えば母国語―によって実現されて良く、また一度統合化それ自体が公共的に了解されてしまえば、以後省いても良い段階である。(Masafumi Oda)

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