池田一は、自身をときに「水のアーティスト」と呼んでいる。それは、世界各国で氏が展開してきたプロジェクトの内容からも明らかだ。だが実を言えば、私は氏が「水」を特権的な媒体として用いている、ということに関しては、目下特別な関心をもっていない。氏のもつ壮大なアート観、アート思想体系にこそ、目下多くの「アーティスト」と称されている人々が―私も含め―見るべきものがある。もちろんこのアート思想体系と水という特権的な対象とが互いに不可分であることは承知である。この不可分性については、様々な箇所で詳論したので、論じるにしても別の機会ないし別の記事に譲りたい。
「アートが行政を超える瞬間」を池田一氏は強調する。アートは、行政に反してはならない。それは公共良俗に反してはならない。氏が「水のアーティスト」、つまり環境アーティストだから、特別にそうである、というのではない。公共良俗に従うのは、アートであっても当然のことである。その上で、私が氏に見ているのは、行政、より一般的に言い換えると制度的なものの外部にあって成立しているアートという独立した領域である。
例えば、ギリシア哲学以来語り継がれてきた「質料/形式」の二元論を見てみよう。19世紀になりいわゆる「生の哲学」が、世界や生の不合理性を強調するため質料の方に重きを置き、20世紀には、主にフランスを主とするポスト構造主義者たちによって、質料は「偶然性の源」「アプリオリな偶然性」などいった器官として存在論化された。それは経験において経験的に説明できないものを説明するための器官として、「超越論的」器官とでも呼べるものである。超越論哲学は21世紀現在猛烈な批判に晒されているのであるが、ここではそれに触れる余裕も必要もない。
簡単に、超越論的器官が、質料の肥大化したものが存在論化されたものだとしよう。すると、哲学的観点からは、経験的な世界と、超越論的な領域とが並行して存在することになる(後者が単に超越でないのは、様々な概念装置や諸条件によるのであるが、ここでは触れない)。
別の図式をたてよう。アートは、制度的なものに常に反撥し、それに疎外され、他に還元できない何かある動的な領域である。逆に、世界を固定したものとそれに還元されない動的なものに分割したうえで、また前者を制度と定義したうえで、後者をアートと定義する(しかしこれでは十分でない―アートは制度より深いところにあって、そこで生きた人間のなまのネットワークを成立させているのである。そこに大胆に踏み込むのが池田一という最も根源的な意味でラジカルなアーティスト(radical artist in the most radical sense )なのである)。
アートという領域の存在は、人間の必要十分条件ですらある。しかし他の仮定的な必要十分条件としての超越論的概念、例えば生や差異といったものと違うのは、それは超越論批判者の先鋒たるカンタン・メイヤスーの祖先性の主張に対して堪えうる、ということである。超越論的器官が祖先性の主張ないし宇宙に対して閉じているのに対し、アートは積極的に言えば、宇宙に対して完全に開かれており、物質に対して人間を開く、つまり物理的な超越を人間に対して補うことで、人間の「宇宙倫理的な」ちっぽけさから人間を救う力を持つ、ということである。ハイデガーの技術論に反して、人間を脅かすものは技術でも科学でもなく、それと相関した新しい哲学であった。人間的なものが、哲学においてさえ科学ないし技術の急激な進歩と相関して軽視の一方にあり、超越論的なものはその消去を目論まれている。それでも、救うものとしての芸術の領域は、今のところ侵犯されていない。
上記のあらゆる意味で、アートは、超越の克服である。
これを差し当たりは一つの結論としておこう。
アートについては書くこと、説明すべきことが膨大に残されているが、池田一論として、次回は氏独自の言い回しである「路傍の表現」を採り上げようと思う。
なお超越の克服としてのアートを実感したのは、2017年の春田浜における池田一氏のプロジェクトに際してである。
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