池田一は、二重の意味において起源をもたない人物である。一つ目の意味では、氏は本当の両親を知らず育った。幼少より育てられた両親は、生みの親ではないということを突如聞かされたとのことである。

 

しかしより本質的なのは第二の意味においてであって、氏は、自分の存在が、果たしてどこから来たのかを永遠に希求することをパフォーマンスの本質としている、ということである。

 

この意味における起源の(永遠に終わりをみない)探求は、例え自身の両親がはっきりしている者であれ、誰しも試みたことはあろう。

曰く、「なぜ私は生まれてきたのだろう?」要するに、自分の存在根拠の探求である。大抵の人々は目の前の雑事に追われ、この永遠の謎の探求を打ち切る。それも、愚かさ故にではなく、問い続けても永遠に答えの出ない問いだと理解しているからだ。しかしこの問いは大口を開けて、日常のすぐ傍らに潜んでおり、日常と言う仮初めの安定性が傾きを見せた時、すぐさまその者を飲み込む。

 

このことを、より哲学的な言い回しで明らかにしてみよう。つまり、池田一の路傍の表現という概念を、西洋哲学的な言い回しに還元したうえで、その本質を哲学的に明らかにすることを試みよう。

 

永遠とそうでないものの領域との完全なる分離が、再考されるのは望ましいことであるであろう。クワインは、分析的と総合的の二分法を棄却したが、その射程はその語が示すように論理学的な範囲に限られる。

しかし英米系の哲学にもましてあらゆる伝統的哲学は、いかなる形にしろ、永遠的なものと経験的なものとの接合を目論み、経験的なものを永遠的なものによって説明するにしろ(プラトン主義)、永遠的なものの定立から経験的なものの発生の説明するにしろ(ニーチェ―ドゥルーズ)、経験的なものがもつ還元不可能な神秘性によって足元を掬われてきた。

それに対して、永遠的な領域に哲学的探求を限れば、外的操作によってこれまた永遠的な無数のステップ(形而上学的諸命題)が得られるであろう。だからこの探求は、実践的性格に直接には結び付かない。しかし、この永遠と経験との二元論が生じるのは、まさに哲学的思考においてであって、日常においては、それらは様々な形で、その認識がその文脈における出来事の最も適切な解釈となるように、永遠的なものと経験的なものとの混合の調整が常に行われている。

 

永遠的なものではなく、経験的なものこそが神秘的となった今や、一つの特別な行為とは、経験的なもののまさにその場所であるイマーココにおいて、出現・現象する一切の形式的解釈を放棄することである。そして、自分自身、実体ならざる現象として、イマーココという経験の唯一の場所にしがみつくというのならば、それは自己のあらゆる形式的解釈を放棄するということである。つまりそれはひたすら問い続けるということであるが、それがもはや思考の放棄を意味するとすれば、残るのは行為しかない。そして、行為が反復され、パターンが生じることで、思考そのものが生まれてくるようであれば、それは彼が自ら現象であることを止め、永遠の領域の安息を志向する、ということである。


ドゥルーズの用語であるが、着衣の反復という非概念的な実在から差異を抜きとる、とは、区別をつける、分別を可能にする、思考が可能となる、ということであり、思考が「差異の反復という実在そのもの」から区別・分離される、ということを意味する。だから、ドゥルーズは思考の発生を肯定的に語っていたが、池田一は、逆に自らという「差異の反復」を、現象のままにしておくことで、思考が生じることを拒絶しているのである。差異の反復が存在となってしまう、ということにでもなれば、それは思考の対象となり、思考が生じてしまう。一切は差異の反復である、という判断が生じてしまう。対象化作用そのものが、当の対象と区別されるものとしての思考の発生を含意するのである。自らが現象である限りで、対象は生じ得ない。自らが存在化すれば、それは現象がパターン化することで非現象となることを意味する、つまり自らが対象となりうる。それは特定の誰かにとっての対象ではなく、差し当たりは未規定で匿名の汎主体の対象ではあるが、そういうものとして、汎主体という客観性が、思考、ないし対象化作用として生じてくるのである。

 

池田一の路傍の表現とは、こうした現象のパターン化としての存在化に抗う(池田一自身の表現で言えば、生じてくるメロディやリズムや言葉を「何が何でも壊してしまう」)という行為なのであり、それは「要するに、長年貯め込んだ制度なるものを逸脱する他に、即興的に持続を可能にする道はない」ということを意味するのである。(Masafumi Oda)