2018年10月

一緒に、考えようじゃないか、今だから

分断、排斥、差別などが蔓延する世界で、「何が、いま 公共なのか?」。
公共の旗印を掲げて、がむしゃらに進行する 自愛・自国主義。
『残された公共性は、地球しかない!』と、私は確信し、豪語したい。
そして、『地球という公共性』に立ち向かえるのは、政治や経済といった分断構造の延長にはない。

アートの本来の可能性は、そこにある。
いや、正確には『地球という公共性』に向き合うアースアート以外には

突破する力はないだろう。

一緒に、立ち向かおうではないか、明日のために
       
                                               Ichi IKEDA  2018.10.23

池田一は、二重の意味において起源をもたない人物である。一つ目の意味では、氏は本当の両親を知らず育った。幼少より育てられた両親は、生みの親ではないということを突如聞かされたとのことである。

 

しかしより本質的なのは第二の意味においてであって、氏は、自分の存在が、果たしてどこから来たのかを永遠に希求することをパフォーマンスの本質としている、ということである。

 

この意味における起源の(永遠に終わりをみない)探求は、例え自身の両親がはっきりしている者であれ、誰しも試みたことはあろう。

曰く、「なぜ私は生まれてきたのだろう?」要するに、自分の存在根拠の探求である。大抵の人々は目の前の雑事に追われ、この永遠の謎の探求を打ち切る。それも、愚かさ故にではなく、問い続けても永遠に答えの出ない問いだと理解しているからだ。しかしこの問いは大口を開けて、日常のすぐ傍らに潜んでおり、日常と言う仮初めの安定性が傾きを見せた時、すぐさまその者を飲み込む。

 

このことを、より哲学的な言い回しで明らかにしてみよう。つまり、池田一の路傍の表現という概念を、西洋哲学的な言い回しに還元したうえで、その本質を哲学的に明らかにすることを試みよう。

 

永遠とそうでないものの領域との完全なる分離が、再考されるのは望ましいことであるであろう。クワインは、分析的と総合的の二分法を棄却したが、その射程はその語が示すように論理学的な範囲に限られる。

しかし英米系の哲学にもましてあらゆる伝統的哲学は、いかなる形にしろ、永遠的なものと経験的なものとの接合を目論み、経験的なものを永遠的なものによって説明するにしろ(プラトン主義)、永遠的なものの定立から経験的なものの発生の説明するにしろ(ニーチェ―ドゥルーズ)、経験的なものがもつ還元不可能な神秘性によって足元を掬われてきた。

それに対して、永遠的な領域に哲学的探求を限れば、外的操作によってこれまた永遠的な無数のステップ(形而上学的諸命題)が得られるであろう。だからこの探求は、実践的性格に直接には結び付かない。しかし、この永遠と経験との二元論が生じるのは、まさに哲学的思考においてであって、日常においては、それらは様々な形で、その認識がその文脈における出来事の最も適切な解釈となるように、永遠的なものと経験的なものとの混合の調整が常に行われている。

 

永遠的なものではなく、経験的なものこそが神秘的となった今や、一つの特別な行為とは、経験的なもののまさにその場所であるイマーココにおいて、出現・現象する一切の形式的解釈を放棄することである。そして、自分自身、実体ならざる現象として、イマーココという経験の唯一の場所にしがみつくというのならば、それは自己のあらゆる形式的解釈を放棄するということである。つまりそれはひたすら問い続けるということであるが、それがもはや思考の放棄を意味するとすれば、残るのは行為しかない。そして、行為が反復され、パターンが生じることで、思考そのものが生まれてくるようであれば、それは彼が自ら現象であることを止め、永遠の領域の安息を志向する、ということである。


ドゥルーズの用語であるが、着衣の反復という非概念的な実在から差異を抜きとる、とは、区別をつける、分別を可能にする、思考が可能となる、ということであり、思考が「差異の反復という実在そのもの」から区別・分離される、ということを意味する。だから、ドゥルーズは思考の発生を肯定的に語っていたが、池田一は、逆に自らという「差異の反復」を、現象のままにしておくことで、思考が生じることを拒絶しているのである。差異の反復が存在となってしまう、ということにでもなれば、それは思考の対象となり、思考が生じてしまう。一切は差異の反復である、という判断が生じてしまう。対象化作用そのものが、当の対象と区別されるものとしての思考の発生を含意するのである。自らが現象である限りで、対象は生じ得ない。自らが存在化すれば、それは現象がパターン化することで非現象となることを意味する、つまり自らが対象となりうる。それは特定の誰かにとっての対象ではなく、差し当たりは未規定で匿名の汎主体の対象ではあるが、そういうものとして、汎主体という客観性が、思考、ないし対象化作用として生じてくるのである。

 

池田一の路傍の表現とは、こうした現象のパターン化としての存在化に抗う(池田一自身の表現で言えば、生じてくるメロディやリズムや言葉を「何が何でも壊してしまう」)という行為なのであり、それは「要するに、長年貯め込んだ制度なるものを逸脱する他に、即興的に持続を可能にする道はない」ということを意味するのである。(Masafumi Oda)

池田一は、自身をときに「水のアーティスト」と呼んでいる。それは、世界各国で氏が展開してきたプロジェクトの内容からも明らかだ。だが実を言えば、私は氏が「水」を特権的な媒体として用いている、ということに関しては、目下特別な関心をもっていない。氏のもつ壮大なアート観、アート思想体系にこそ、目下多くの「アーティスト」と称されている人々が―私も含め―見るべきものがある。もちろんこのアート思想体系と水という特権的な対象とが互いに不可分であることは承知である。この不可分性については、様々な箇所で詳論したので、論じるにしても別の機会ないし別の記事に譲りたい。

「アートが行政を超える瞬間」を池田一氏は強調する。アートは、行政に反してはならない。それは公共良俗に反してはならない。氏が「水のアーティスト」、つまり環境アーティストだから、特別にそうである、というのではない。公共良俗に従うのは、アートであっても当然のことである。その上で、私が氏に見ているのは、行政、より一般的に言い換えると制度的なものの外部にあって成立しているアートという独立した領域である。

例えば、ギリシア哲学以来語り継がれてきた「質料/形式」の二元論を見てみよう。19世紀になりいわゆる「生の哲学」が、世界や生の不合理性を強調するため質料の方に重きを置き、20世紀には、主にフランスを主とするポスト構造主義者たちによって、質料は「偶然性の源」「アプリオリな偶然性」などいった器官として存在論化された。それは経験において経験的に説明できないものを説明するための器官として、「超越論的」器官とでも呼べるものである。超越論哲学は21世紀現在猛烈な批判に晒されているのであるが、ここではそれに触れる余裕も必要もない。

簡単に、超越論的器官が、質料の肥大化したものが存在論化されたものだとしよう。すると、哲学的観点からは、経験的な世界と、超越論的な領域とが並行して存在することになる(後者が単に超越でないのは、様々な概念装置や諸条件によるのであるが、ここでは触れない)。

別の図式をたてよう。アートは、制度的なものに常に反撥し、それに疎外され、他に還元できない何かある動的な領域である。逆に、世界を固定したものとそれに還元されない動的なものに分割したうえで、また前者を制度と定義したうえで、後者をアートと定義する(しかしこれでは十分でない―アートは制度より深いところにあって、そこで生きた人間のなまのネットワークを成立させているのである。そこに大胆に踏み込むのが池田一という最も根源的な意味でラジカルなアーティスト(radical artist in the most radical sense )なのである)。

アートという領域の存在は、人間の必要十分条件ですらある。しかし他の仮定的な必要十分条件としての超越論的概念、例えば生や差異といったものと違うのは、それは超越論批判者の先鋒たるカンタン・メイヤスーの祖先性の主張に対して堪えうる、ということである。超越論的器官が祖先性の主張ないし宇宙に対して閉じているのに対し、アートは積極的に言えば、宇宙に対して完全に開かれており、物質に対して人間を開く、つまり物理的な超越を人間に対して補うことで、人間の「宇宙倫理的な」ちっぽけさから人間を救う力を持つ、ということである。ハイデガーの技術論に反して、人間を脅かすものは技術でも科学でもなく、それと相関した新しい哲学であった。人間的なものが、哲学においてさえ科学ないし技術の急激な進歩と相関して軽視の一方にあり、超越論的なものはその消去を目論まれている。それでも、救うものとしての芸術の領域は、今のところ侵犯されていない。

上記のあらゆる意味で、アートは、超越の克服である。
これを差し当たりは一つの結論としておこう。

アートについては書くこと、説明すべきことが膨大に残されているが、池田一論として、次回は氏独自の言い回しである「路傍の表現」を採り上げようと思う。

なお超越の克服としてのアートを実感したのは、2017年の春田浜における池田一氏のプロジェクトに際してである。

緊急のお願いです!「地球環境の危機にアートが立ち向かう! アースアーティスト池田一が『アースアート3部作』を緊急刊行!」 その第1弾が、朝日新聞社A-portでクラウド・ファンディングを開始しました。地球の未来に共に向かうことへのご理解と、そのための力強いご支援を切にお願いします。なにはともあれ、A-portに直行あれ!

FaceEthics1 のコピー
---標準的なアートの歴史では、1960年代の初期のランドアートやアースワークから、大阪出身のアーティスト・池田一などの環境アートのシフトについて言及するだろう--

この興味深い文章は、ミネソタ大学出版局が2010年に出版した『アースアートの倫理学』という本について紹介した評者の言葉である。この本は、1960年代のロバート・スミッソンから始まり、その変遷の歴史を論じた後、終章で「地球に倫理的に向き合うこと」を最重要なテーマとして掲げ、その代表的なアーティストとして、池田一を論じている。

アースアートとは、ランドアート、アースワークから、環境アート、エコアートに至る、『自然系のアート』の総称であり、その中でも地球の未来への方向性を示すものであることが望まれる。

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