かつて、池田一氏を特集したArt Crossing創刊号において、私は「存在的水」と「存在論的水」の区別を定立した。「なぜ、水のアートですか?」という問いに対し、池田一氏は「水に絵を描いた画家もいないし、水を彫刻した彫刻家もいない。水は、文明が蓄積し進化してきた芸術文化の方法論、技術を越えて存在している」と答える。そうであるとすれば、この池田一氏の言う水は、確かに制度的なものを否定する存在であり、制度化に抗う存在である。それを私は「存在論的水」と名づけ、それは生成のシンボルであるどころか、より深いレベルではむしろ歴史という流れから超越した静的な存在である、とした。しかしここで私は、その存在が、つまり存在論的水が「究極の実在」である、というまずい言い方をした。本当は、「究極の実体」というのが正しい(その後で存在論的水は特殊な実体である、といい直しているが、これは取りも直さず実体と実在の概念を混同していたことを証している。誠に我ながら恥ずべきことである)。そこで、存在論的水が特殊な実体である、と再確認したうえで、考察を進めよう。

 「全てのものは予め存在している」ということ主張は、取り立てて哲学的に奇異なものではない。プラトンのイデア界がそうであるし、虚構の存在論を構築している三浦俊彦がウォルターストーフの種類説を解釈して、「種類の理論は虚構的対象の存在、しかも恒久的な既在を保証することになる」というとき、また続けて「虚構的対象とは作品内に具象化された種である」というとき、その虚構的対象の恒久的な既在がそうである。なぜなら、「性質もしくは種は、通常の形而上学によれば、その事例が存在するしないにかかわらず、いかなる世界にも必然的に存在する」からである。しかし三浦(ウォルターストーフ)らが語るこれらの「恒久的な既在」と、私がその存在を主張したい「予め存在している」全てのものとが違うのは、後者が個体をも含む、ということである。そこでなんと個物主義のスコトゥスと種類説のウォルターストーフとの中間に、その両者をも包含しうるプラトン哲学が位置することにもなろうが、プラトンより私にとって示唆的なのは、オッカムの唯名論である。オッカムは、神の内なるイデアも否定し、神が創造に先立って見た対象は将来存在する個物そのものであるとした(神に対しては未来の事物も現前する)。ここで「神」および「創造」の概念を減算し、未来の事物、ないし予め存在する事物に種をも認めたならば、またプラトンとは、個「も」また全面的にイデア界に存し、その例化をも認めるということで差別化されたならば、それこそが私の「全てのものは予め存在している」という主張が表現しているところの事態なのである。

 今回は考察をここまでにしておかなければならないが、この後に続くべき議論としては、池田一氏の存在論的水の一般化としての「特殊な実体」が、「恒久的に予め存在している」ことを示すことであり、さらには次のような個体化のオペレーターとも同一視されることを示すことである:貫レベル的に、具体的な対象に作用することで、その具体的な対象の集合(それは例えば具体的な文脈の束であってよい)から一つを取り出す作用(特殊化の作用)として解されたものとしての、個体化のオペレーター。(織田理史)